今にも崩れそうな本棚の下で

漫画の感想を書いたり書かなかったりします。

パロディが本物を規定する

私は、戦隊ヒーローものや仮面ライダー魔法少女なんかのテレビ番組を、まともに見たことがない。

正確には、小さい頃、その一部を見たことはあったのだろうが、もはやその内容の記憶がない。

だから、それらに関する私の中のイメージは、ジュウショウワン(トクサツガガガ)であり、ラブキュート(トクサツガガガ)であり、Hybrid Insectorであり、センチネル(フランケンふらん)だ。

これは極端な例にしても、パロディは知っているが元ネタを直接は知らない、ということは、誰にもあり得るだろう。

もはや、元ネタよりも有名になってしまったパロディも存在する。

 

パロディを作るときには、元ネタの何が元ネタらしくさせているのか、元ネタの本質は何か、を考慮することになる。

例えば、BLEACHと桃太郎を混ぜた話を作るとしよう(BLEACH用語だらけの桃太郎)。

桃太郎を桃太郎たらしめる要素としては、「出生に桃が関連する」「きびだんごで仲間を作る」「鬼を退治する」が考えられる。

パロディを作るには、上記の要素の少なくとも一部を入れることになるだろう。

逆に、全く上記の要素が何も入っていなければ、パロディとして成り立つのは難しい。

 

1つのパロディではなく、多数のパロディが作られるようになると、それぞれのパロディが採用している要素から、元ネタの本質的な要素が見えてくる。

そして、パロディ群が元ネタよりもメジャーになると、人々は、パロディ群から元ネタを理解するようになるのだ。

その段階に至ると、パロディが人々にとっての本物を規定することになる。

時として、このような構造は誤解を生む。

宇宙戦艦ヤマト真田志郎は「こんなこともあろうかと」とは言っていないし、火垂るの墓に「節子、それドロップやない。おはじきや。」というセリフはない。

ケンシロウが「お前はもう死んでいる」と言ったのも、星一徹がちゃぶ台をひっくり返したのも一度きりだ。

これらは、単なるセリフの有無などの問題にすぎないが、パロディが、元ネタに関する人々の認識を歪めた例といえるだろう。

 

また、多くのパロディが生まれるのは、元ネタの魅力のあらわれでもある。

ジョジョ刃牙カイジは、散々、パロディにされているところ、それは、(各作品のアクの強さがパロディにしやすいという要因も否めないが)これらの漫画が面白いことの証左である。

駄作ゆえにネタにされてパロディが生まれることもあるが、それも何かしら光る個性があることが多く、真に何のひっかかりもない作品が、パロディにされることは稀だ。

パロディ群の存在は、元ネタが本物たり得ている証明でもあるのだ。

 

私は、このように、一見従属的な要素が、主たる要素に優越している、という話が好きだ。

その意外性に魅力を感じているのかもしれないし、判官贔屓なのかもしれない。

かつての脱構築とか、ポストモダンみたいな言説にかぶれただけなのかもしれない。

いずれにせよ、この文章は、そんな好みを持った私の、我田引水的な記事だ。

 

これからも、本物を規定する優れたパロディが生まれ、また、優れたパロディを生み出す本物が生まれますように。