今にも崩れそうな本棚の下で

漫画の感想を書いたり書かなかったりします。

「『差別する自由』などというものはない」という記事がよく分からない

※この記事はこのブログの多くの記事と異なり、漫画と関係がありません。

※この記事は憲法や法律、差別などに興味がない人が読んでも面白くないと思います。

 

先日、以下の記事を読みました。

www.watto.nagoya

読んでもよく分からないところがあったので、今日はよく分からなかった部分やこの記事(以下では、本記事といいます。)を読んで考えたことを書きたいと思います。

 

 

形式論理(命題1、2からの命題3の導出)について

 

本記事において、わっとさんは、以下の命題を挙げます。

 

 命題1「人権を制限するのは人権だけ(他人の人権を制限するときに限り人権は制限を受ける)」
命題2「人権のもっとも重要な要件の一つである『差別からの自由』は『差別する自由』と対立する」
命題3「よって『差別する自由』は制限を受ける」 

 

その上で、「命題1と命題2を認めるなら、命題3の成立は自明である」としているのですが、ここがまずよく分かりません。

命題1と命題2からは、「『差別からの自由』を制限できるのは、人権だけである」ということは導けます。

しかし、それ以上のことが導けるようには思えません。

(もしかしたら、命題3は、「『差別する自由』は、(全面的にかはともかく)少なくとも部分的には制限を受ける」ということなのかもしれません。しかし、そんなことをわざわざ言う意味は無い気がしますし、本記事のタイトルとも乖離しています。また、命題2に「差別からの自由」は常に「差別する自由」に優越する、という意味が含まれているのかもしれませんが、それが自明だとは思えませんし、命題1が不要になります。)

 

命題1を生かすためには、命題2の代わりに、

命題2a「『差別からの自由』は人権である」

命題2b「『差別する自由』は人権ではない」*1

を付加することが考えられます。

命題1、命題2a、命題2bからは、

「『差別からの自由』は、『差別する自由』によっては制限されない」(命題4)

ということを導くことができます。

あとは、これに加えて

「『差別する自由』以外に『差別からの自由』を制限すべき理由はない」(命題5)

ということが認められれば、

「『差別からの自由』はおよそ制限されない」(命題6)

ということが導けるでしょう。

このことは、「『差別する自由』は認められない」(命題7)と言い換えることもできそうです。

 

しかし、このような流れでこの結論を導くためには、上記のとおり、命題7とよく似た命題2b「『差別する自由』は人権ではない」が認められる必要があります。

そうすると、わざわざこのような論理をたどって結論を導く意味がどこまであるのか疑問です。*2

(もしかしたら、私が何か致命的な誤解をしているのかもしれませんが)

 

 

命題1〜3について

 

命題1

 

命題1は、「人権を制限するのは人権だけ(他人の人権を制限するときに限り人権は制限を受ける)」。

これは、いわゆる一元(的)内在制約説というものですね。

これが今日においてもなお「定説」とまでいえるかはやや疑問ですが*3、他の説をとったところで本題とはあまり関係ないのでおいておきます。

 

命題2a

 

「『差別からの自由』は人権である」。

注意が必要なのは、ここで想定されているのは、私人間の差別行為だということです。

人権の議論は、たいてい国家対個人が想定されており、私人間の問題は、私人間効(力)という問題をはらむことになります。*4

 

命題2b

 

「『差別する自由』は人権ではない」。

ここが一番問題のあるところです。

 

まず、ここでいう「差別する」の内容を明らかにする必要があります。

 大元のツイートを見ると、「ヘイトスピーチ」と言いつつ「思想信条の自由」とも言っているのでよく分かりませんが、「差別する」行為としては、以下のものが想定できます。

①心の中で差別的な考えを持つ

②差別的な表現行為(発言、文書作成等)をする 

③その他差別的な行為をする*5

 

また、「差別」自体あいまいな概念ですが、ここでは「不合理な区別」としましょう。

 

ここで、①が人権である思想・良心の自由に含まれるのはほとんど自明でしょう。*6

 

次に、②については難しい問題です。

それなりにあり得る考え方としては、差別的な表現についても一応、表現の自由に含まれる、としつつ、個別にこれを制約できるか判断していく、というものです。

わいせつ表現や名誉毀損的表現についても、一応表現の自由に含まれるとされるのと同様です。

他方、差別的表現についても、わいせつ表現、名誉毀損的表現についても、表現の自由埒外である、という立場ももちろんあります。

(この立場の場合は、「差別的な表現」などの定義を厳格に行うことになります。)

2つの考え方の違いは、二段階で絞りをかけていくなかで、一段階目で多く絞るか、緩めに絞るか、というイメージです。

一段階目であまり絞りたがらない人の理由の1つは、そこで本来保障されるべきものまでこぼれ落ちてしまうことを危惧していることにあります。*7

 

詳しくは、参考文献も含めて以下を参照してください。

togetter.com

 

③については、内容が色々ですが、例えば、一応営業の自由に含まれる、ということは、あり得ます。

 

以上、長々と述べましたが、結局、「『差別する自由』は(およそ)人権でない」とは当然には言えないのです。

(逆に、「『差別する自由』は(およそ)人権である」とも当然には言えませんが。)

 

差別する自由の有無について

 

結局、差別する自由はあるのか?

「差別する」と「自由」の定義にもよりますが、「差別する」「自由」の定義を広くとる限り、「差別する自由」が(少なくとも一部は)ある、という考えは成り立ち得るでしょう。*8*9

ただ、そう言ってみたところで、結局、どのような「差別」の自由は認められるのか(認められないのか)が次に問題になるのであって、差別する自由の有無を論じる実益がどこまであるのかは疑問です。

 

※本当は、人種差別撤廃条約ヘイトスピーチ規制法についても検討しないといけないのかもしれませんが、検討不足なので、この記事はここで終わります。

 

*1:この命題が自明なのであれば、自明だから省略したということで良いのですが、後述のとおり、自明とは思えません。

*2:差別する自由が人権でないことは命題2bで言えている以上、この結論の実益があるのは、差別する自由が「人権ではない自由」でもない、ということに尽きるでしょう。

*3:例えば、木村草太教授の解説 質疑応答(1) 公共の福祉の理解 - 木村草太の力戦憲法 

*4:あんまり自分でも整理できていませんが、私人間効の場面においては、憲法の趣旨を含めた様々な事情を考慮し私法の一般条項を適用することになるので、一元的内在制約説がどこまで意味があるのか少し疑問です。

*5:例えば、裁判例においてこれまで問題になったものとして、企業が男女別の定年を定めていた例やゴルフクラブ性同一性障害者に対して入会を拒否した例があります。

*6:細かいことをいうと、思想・良心を狭く解する立場からすると異論があり得ますが割愛します。

*7:そういう意味では、大元のツイートhttps://twitter.com/erishibata/status/860166002809556993には、(どこまで意識していたかは分かりませんが)本質的な部分の指摘が含まれていたといえます。

*8:なお、当然ですが、こう考えるからといって、(日常用語としての)差別を推奨又は容認するわけではありません。

*9:例えば、「血液型がO型の人間は大雑把な性格である」「大阪出身の人は皆お笑いが好きである」という発言は、広義の差別的表現ですが、このような発言を政府が罰則付きで取り締まることが許容される、となった場合には拒否感を覚える人も少なくないと思います(比例原則の問題はおくとしても)。